「の自由をはばむもの」をが生み出すこと

x0000000000さんの「これは真の「生殖の自由」なんだろうか」↓を受けて考えた。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071117/1195277074

 人が自由になるための社会運動、特に20世紀の解放運動*1は重要だったし、必要だった。*2その極致が多文化主義だろう。お互いの価値の自由を認め合い、共存を目指すものである。しかし、9.11以降、多文化主義は色あせてしまった。
 多文化主義とは、穏和な分離主義である。認めあえる範囲で認めあい、認めあえない範囲は踏み込まない。もっとも踏み込めない部分が宗教である。特に、一神教の精神は、多文化主義と真っ向から対立する。一神教は、神が唯一無二であることが基底にある。他の存在と、比較すらできない存在が一神教における神である。多文化主義では、この神を、個人の内面に閉じこめることを求める。しかし、宗教を個人の内面の問題とすること自体が、既に西欧的な観念であり、他の一神教と対立することになる。多文化主義は、現代社会の多くの問題を解決するだろう。しかし、解決できない部分も残る。
 そこを解決するためには、どうすればよいのか。やっぱり、なんらかの「正しさ」が必要だろうという話になる。では、どうすればよいのかというと、「自由競争」か「討議」で決めようという二案が出てくる。淘汰され残ったものを「正しさ」とするのか、話し合って合意したものを「正しさ」とするのか。議論は続いているが、どっちにも不備点があり、決着はついていない。*3

 では、出産という問題はどうなのか。
 もし、「女性の解放」を書いたJ.S.ミルだったらどう考えるか。彼は、女性と男性の肉体的格差を減らし、与えられる機会が均等であれば、男女は自由に競争する中で地位も対等になっていくという。ならば、アンドロイドが女性の代わりに出産するようになることに賛成するかもしれない。
 しかし、出産という問題は、「人間を生み出す」という点で特殊である。生まれた赤ん坊は、他のどんな生き物/無生物とも異なる、人間である。子どもを生み出すとは、<私>が<他者>を生み出すことである。ここで、「<私>の自由をはばむもの」とは誰かを考えてみる。*4それは言うまでもなく<他者>である。自由が問題になるとき、<私>と同じではないのに、同じ人間として現われる<他者>をどう扱うのかが、最も問題である。<私>が出産において、自由を追求するとき、それは「自由に、自由はばむものを生み出したい」という矛盾を抱える。そもそも<他者>を生み出すこととは、新たに増える<他者>一人分の自由を、<私>が放棄することである。
 アンドロイドに出産を代行させれば、出産する肉体をもつ女性は自由になる、と言えるかもしれない。しかし、アンドロイドの出産で、この世界にひとりの<他者>が増えることにより、<私>は<他者>ひとりぶんの自由を、この世界から失うことになる。この問題をも自由を求めることで解決しようとすると、どこまでも<私>と同じ、クローンとしての<私>を出産することを望むことになるだろう。しかし、クローンとしての<私>でも、やはり私の目の前に現われるときには、<他者>として捉えることになるだろう。でなければ、<私>の「ここからここまでが<私>という感覚」が基底から覆される。または、<他者>を増やすことをやめ、出産しないことが人類が自由への道である。
 出産について、自由を追求するという観点から言うとすれば、「産まない」というのが一番簡潔な解決策だ。<他者>を生み出すことをやめるのである。では「産む」ことは自由を放棄することなのか。そういうわけでもないだろう。産むことにより、享受していた自由は、減るかもしれない。しかし、自由という概念の核に触れる経験になる可能性もある。なぜなら、自由をはばむものは<他者>であるが、<他者>は自由という概念を生み出す源でもあるからだ。<他者>が存在しなければ、<私>は自由を問題にしないだろう。ここで、自由を追求することだけが、自由を尊重するわけでない、という仮説が立てられる。ひとは、出産を通して、不自由になることで、自由について考え始める原初に立ち戻るのではないか。それは、「なぜか、ひとは不自由になるのに<他者>の存在を求めてしまう」という謎を含む。
 
 以上をみていくと、私が先に述べた、解放運動の末の多文化主義が、「正しさ」を必要としたのとは別の形で、自由について思考する経路が開ける。

*1:「○○である自由」を求めるアイデンティティ・ポリティクス、と言ってもいい。

*2:まだ、必要ですけど。私もコミットすること多いし。

*3:いまのところ、前者が優勢。

*4:以下の、自由を自他関係から捉えるアプローチは、社会学者・大澤真幸の自由に関する議論からヒントを得た。