中沢新一の生態学観はこれでいいのだろうか

中沢新一が解題編集している南方熊楠コレクション『森の思想』という本を再読。

南方熊楠コレクション〈5〉森の思想 (河出文庫)

南方熊楠コレクション〈5〉森の思想 (河出文庫)

中沢の文章はレトリカルに美しいが、内容はほんとうにこれでいいのだろうか。たとえば生態学に触れたところ。

景観の美的秩序は、生物界のエコロジカルな相互関係によって、支えられている。そこが美しくいられるのは、そこでおこなわれている生命同士の関係が、上手に調節されているからだ。そうでないと、自然の景観全体の美は、維持されるはずがない。この生態学的秩序の維持に、神社の森は、きわめて重要な働きをしてきた。生態の秩序は、水田が開かれただけで大きな損傷を受けるものだ。そこに鬱蒼たる神社の森があることによって、人間の世界はどんなに救われてきたことか。いまや、その森が破壊されようとしている。それは景観を二重の意味で破壊する。まず、精神の内部の景観を破壊することによって、人々の心を荒廃させる。そしてそれといっしょに、生態学的なバランスを崩すことによって、害虫などの異常繁殖する、壊れた世界をつくりだすことになる。(119〜120頁)

最後の行は、いくつかの誤謬を同時に含んでいるのではないだろうか。まず「害虫」とは何か。それは人間が勝手に決めた「害」虫である。生態学的なバランスの崩れ方とは根本的には無関係のことである。生態学的なバランスが崩れて、「益虫」が異常繁殖しても、それはやはり壊れた世界か? 生態学的なバランスが崩れて、おいしい果樹が異常繁殖したら、それを備蓄しておいしく食べればいいではないか。実際、森が破壊されても、そのあとに別種の植物群が謳歌することはある。また害虫が増えたとしても、それを食べる動物種にとっては天国のような環境になるだろう。また生態学的なバランスが崩れるとは何を指して言っているのか。バランスのとれた生態系とは、あるときにはある種が増え、そのあとで他の種が増え、そうやってダイナミックに移り変わっていきながら、大きな時の流れの中で全体として種の多様性が維持されるシステムのことだろう。スタティックな極相モデルに縛られすぎてはいないか。

また、最初のほうの、生命同士の関係が上手に調節されているから景観全体の美が維持されるという自然観もそれでいいのだろうか。砂漠や北極海の景観の美と人間が感じるものは、生命同士の関係とはほぼ無関係ではないのか。あるいは生命同士の関係が上手に調節された熱帯雨林では、一面の泥河にブヨや蚊や蛭の乱れ飛ぶ景観が維持されているところもある。それを中沢は景観の美として認識するのだろうか。

中沢は私の『宗教なき時代を生きるために』が出たときに好評してくれた恩義があるので、頭は上がらないが、それとこれとは別の話である。いくつもの疑問が浮かんでは消える。他山の石にしたいと思う。