横塚晃一『母よ!殺すな』・2

16日、17日と京都で障害学会があり、盛況のうちに終わった。以下、学会会場で購入してきた。

母よ!殺すな

母よ!殺すな

脳性マヒ者の障害者団体「青い芝の会」は、知る人ぞ知る団体である。その中でもっとも有名なことばに、「愛と正義を否定する」「問題解決の路を選ばない」というものがある。

だが私は、彼らが少なくとも正義を否定しないし、実際に問題解決しようとしている、と思ってきたし、私が出会った青い芝の会の障害者たちはそうだった*1。今回、この名著『母よ!殺すな』を読んで、強くそれを感じた。映画『さようならCP』の上映討論会で、「愛と正義を否定する」とはどういうことか、という質問を受けての横塚の回答である。

まず愛と正義とはどういうことかというと、正義というのはいわゆる勝てば官軍ということ、勝った方が正義で、正義に対して全く反対のものとして悪がある。悪とは何かといえば負けたほうが悪。それでいわゆる正義である以上勝たねばならない。これは人より強いか弱いか、あるいは生産性が大きい、あるいは小さい、それから多数者対少数者というふうに比べてみれば皆当てはまること。で、我々の存在というのは絶対的少数者である。だから我々はいわゆる正義の側には立てない。西部劇でいえば負ける方のインディアンである。西部劇の正義というのはやっぱり白人の側が正義である。これは日本の歴史ばかりでなく世界の歴史はすべてそうなっている。子供のテレビドラマに出て来る正義の味方月光仮面、あれは正義で絶対に負けたことがない。(pp.169-170)

見事に論理的かつ驚くほど明晰である。ちなみに愛についても横塚はキリスト教の「神の愛」をもちだし、「上から下へ常に一方通行である」ことを批判する。つまり、青い芝の会が言う、健全者の論理としての「正義」というのは、端的に言って「勝った方」なのである。また、少し解釈を入れれば、「勝つことを宿命づけられているとされる側」ともなろうか。私はこの部分を再読し、改めて思ったことは、青い芝の会が批判し糾弾する「正義」なるものは、「9・11以降のアメリカ」に特徴づけられる「正義」だということである。それを、青い芝の会は極めてレトリカルに、逆説的に主張した、と私は考えている。なぜなら、そんなふうに主張せざるを得ないような社会であったし、現在もそのような社会であるからだと私は思っている。

解説を書く立岩真也の文章も一読に値する。「例えばイタリアやフランスの哲学者たちでそんなこと(引用者註・政治哲学や倫理学で「価値」を扱うこと)を主張したいように見える人たちの主張さえもが、どこか中途半端な感じがするのに比べて、単純だが、はっきりしている」(p.419)と述べる*2。青い芝の会の残した思想は、闘いながら(余儀なく闘わざるを得なかったということは忘れるな!)得られたいわば「血まみれの原石」である。ここを拠点にして、1つの思想のストーリーは紡がれていくだろう。

最後に、立岩の以下の言葉を引用して締めよう。

この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時は来ないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、決して悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している。(p.425)

*1:私が出会ったのは90年代はじめだから、時代の違いはあるかもしれない。

*2:立岩は明示していないが、アントニオ・ネグリやヴァン・パレイスを念頭に置いているように思える。