社会学/社会福祉学/倫理学

三島亜紀子による書評論文「日本の児童虐待問題に関する研究の10年――社会福祉学の研究者v.s.社会学の研究者?」を読んだ。以下の本に所収。

福祉社会学研究〈4〉

福祉社会学研究〈4〉

福祉社会学会という、設立5〜6年の新しい学会がある。三島は、設立趣旨は理解できるとしながら、次のように述べている。

社会学の人」と「社会福祉学の人」との間には深い亀裂があるような印象をもっていた(p.189)

それが端的に現われているのは、児童虐待に関する問題だとしながら、三島はこの「深い亀裂」について次のように述べる。

社会学の人」たちの一部は、児童虐待問題が社会的に構築されたため増加したものと断言する。また何らかの社会変動があったものとし、人々の心性や社会の分析をはじめるかもしれない。いっぽう、「社会福祉学の人」たちの一部は、「社会学の人」たちのそんな客観的な態度が許せない。かわいそうな子どもを見殺しにするのか。そしてより実戦に即した虐待にかかわる調査や、虐待を発見・予防するためのツールの作成、被虐待児や虐待をする親に対するカウンセリングやセラピーの手法の確立などに精を出した。(pp.189-190)

以下三島は、本の紹介をしながら、「この10年間で両者は歩み寄ったと表現できるかもしれない」としながらも、やはり「社会福祉学社会学の「文化」の違いは依然存在するように思えるのも事実だ」と言う(p.195)。そこで三島はこの両者の「異文化」交流による研究の可能性を示唆しながら稿を閉じる。
私見では、この二者の「対立」は、価値判断をどう考えるのかという問題と直結している。すなわち、あらゆる価値判断を学問研究の外におくいわゆる「価値自由」に関わる問題である。つまり、価値の問題を、学問外在的なものととらえるのか、それとも価値の問題込みで内在的な学問を志向しようとするのか、である。ただ、一点だけ指摘しておけば、「価値自由」も、それを選択するという意味においては価値(メタ価値)である。また、価値抜きの学問を志向するとしても、「なぜ児童虐待研究をしようと思ったのか」という動機の部分においては、明らかに「その人の人生においては」価値づけ可能であろう*1
私は実は、両方が可能であると思っている。児童虐待「問題」が、人々の言説実践によって社会的に構築されているのは、新聞報道などで明らかである。他方、その問題の当事者にとっては、「現に肉体的/精神的苦痛がある」わけで、それにコミットしようと思えば、「苦痛を和らげていくための方策」を考究する学問的基盤も必要になってくるだろう。
倫理学もまた、こうした社会福祉学の哲学的部分を担ってきたと言えよう。だから、社会学のこうした構築主義的部分とは、相性が悪かったのではなかろうか。構築主義が明らかにしてきた知見と、その限界を見据えたうえでの社会学社会福祉学倫理学の結節点の構築が、現在人文系・社会科学系の「最先端」の議論なのかもしれない。
(ちなみに三島さんは、次のような「変な」著書を出しておられる。面白い。「変な」と言ったのは、ほめ言葉です)

児童虐待と動物虐待 (青弓社ライブラリー)

児童虐待と動物虐待 (青弓社ライブラリー)

*1:そして「生命学」はその部分を学問として提示しようとしているところに、そのユニークさがあると私は思っている。