「サバルタン」って言うな!

 x0000000000さんからトラックバックをいただいた。

サバルタンが本当に必要としているのは、サバルタン論なのか」ということなのである。そして、僕はそうではないと思っている。(略)「いま、ここで」サバルタンに必要なものは、その生を肯定し得る物質的・精神的基盤なのである。

x0000000000「サバルタン論は誰に届けるべきか」『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070615

結論から言えば、「本当に必要としている」ものは誰にもわからない。何も届けられないという、無力感の前に立ち尽くす状況を告発するのがサバルンタン論であれば、サバルタンの「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」が何であるかもわからない、とするのが筋ではないか。そして、その「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」がサバルタン論に埋め込まれているかもしれない、という可能性も否定できないだろう。
 素朴に考えて、やはりサバルタンと呼ばれそうな人の前で、スピヴァクサバルタン論を解説するのは、馬鹿のやることだとしか思えない。*1しかし、何をやったって、サバルタンの前では私は馬鹿にしか見えないのではなかろうか。飢えている人に、自分の鞄からパンを出して渡すことは、馬鹿ではないのか?私の鞄は無限にパンが入っているわけではない。その場しのぎにパンを渡すことも、やはり馬鹿にしか見えないだろう。しかし、馬鹿にみえることを厭うて、サバルタンを無視し続け、サバルタンのままにすることが一番の不正義である。何をやったって、馬鹿にしかみえないが、何かすれば、少なくともサバルタンに呼びかけることになり、可視化することができる。
 私は、x0000000000さんの次の部分に共感している。

実は僕はスピヴァクの論を「サバルタンは語ることができる」と解釈している。すなわち、特権階級の者たちが、語らせないだけなのだ。特権階級の人たちが「学び捨てる(unlearn)」とは、サバルタンの、身を呈した「ここにいるという存在が発するvoice(声/態度/ありよう)」を、嘘偽りなく事実として受け止めていくことなのではないのか。

しかし、サバルタンの存在は、特権階級の人たちが、馬鹿にしかみえない身振りをすることでしか、受け止められない事実だろう。
 では、何をすべきかというと、馬鹿にみえる/みえないに関わらず、全てを分配することである。サバルタンが必要としているものは、非サバルタンには決められない。「サバルタン論はサバルタンに必要がない」という申し立ては、サバルタン側つまりサバルタンでなくなったサバルタンによって、事後的におこわなれる。そのとき、サバルタン論を説いた非サバルタンは馬鹿にみえるだろうが、それは仕方がないことだ。サバルタン論を占有している特権階級の、サバルタン論研究者たちは、そのサバルタン論こそを手放し分配しなければならない。「生を肯定し得る物質的・精神的基盤」には、学問も含まれ、分配されるべきだ。
 そして、サバルタン論が、サバルタンと名指される人のもとに届いたとき、つまり「私はサバルタンで、この人たちはサバルタン論に基づいて自分に接触してきた」ということが明らかになったとき、おそらくサバルタンは「サバルタンって言うな!」と抵抗するのではないか。「私は、声をあげることができる/あげさせろ!」と言うとき、サバルタンと非サバルタンの境界線は揺らぐだろう。

 kanjinaiさんが、このブログの下に新しいエントリーを立ち上げて言っている。

「あなた」と呼びかけている対象の人物が「サバルタン」であるということが、なぜ分かるのかという点である。すなわち、サバルタン論の極北においては、「いったい誰がサバルタンなのか我々は分かってはいけない」というテーゼがあるのではないか。この人に財を配分しなくてはならないとわれわれが考えた瞬間に、その人はわれわれによって「非サバルタン」へと振り分けられたのではないか。
kanjinai「『ここにサバルタンがいる』と言えるのか?」(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070615/1181886496

私は、「あなたはサバルタンである」と指差されたその人は、サバルタンと非サバルタンの境界線に立たされると考えている。その瞬間に、サバルタンと非サバルタンの回路は開かれる契機がある。私の「あなたはサバルタンである」という指差しに対する答えがあれば、その人はすでにサバルタンでないので、間違った私は馬鹿にみえる。指差しに対する答えがなければ、サバルタンに呼びかけただけで、私は、何もできない無力さの中におかれるので、やっぱり馬鹿にみえる。 この馬鹿にみえる身振りだけが、サバルタンを浮かび上がらせる。*2

 ところで、私が先の記事で書いた「非公開研究者会議」について、もう少し。まず、なぜクローズドでなかればならないのかが、わからない。聞かれたくないような話があるのか?と外からみるとかんぐってしまう。次に、ここでいう研究者とは、めちゃくちゃ限定されている。サバルタン論にかかわり、学ぶもの、という意味ではないだろう。私はkanjinaiさんの表現を借りれば、「サバルタンの話が好きな、声届きまくりのパンピーのファン」である。そういう人間に来て欲しくないのはなぜ??邪魔ですか??もしかして、サバルタン論を研究する辛さを分かち合う場を作るんだろうか。だったら、そっとしておくほうがいいのかな。どちらにしろ、東京も沖縄も行けないので、爪かんで寝ます。

*1:以下、馬鹿馬鹿と連呼するけれど、馬鹿であることをネガティブにとっていうというよりは、「道化」という意味で書いています。パンを差し出すことは大事です。

*2:ついでに言うが、確かにサバルタン論研究者だって、物質的・精神的援助をサバルタン論以外でできる方法は考えることができるし、私はそうしたほうがよいと思っている。しかし、それは一人の人間として行うべきであり、サバルタン論研究者としては、やはりサバルタン論をこねくりまわすべきだ。そして、24時間サバルタン論研究者をやってる人は原理的にいない。(ご飯も食べるし、風呂にも入るだろう)