「ここにサバルタンがいる」と言えるのか?

font-daさんのエントリー「ガヤトリ・スピヴァク来日」において、font-daさんが、

スピヴァクの話は、研究者のような特権階級にはない人(=声をあげるチャンスを奪われている人)が、優先的に聞けるようにすべきでは??理想論かなあ。

と書かれ、私のコメントに呼応して、

サバルタン論は、サバルタンに・・・届けるのがサバルタン論の研究者の仕事やん!!と私は常々思っております。

と書かれている。それに刺激を受けて、x000000000さんがご自身のブログのエントリー「サバルタン論は誰に届けるべきか」にて、font-daさんとは別の論点を出されている。すなわち、サバルタンに本当に必要なのはサバルタン論というよりも、

、「いま、ここで」サバルタンに必要なものは、その生を肯定し得る物質的・精神的基盤なのである。「いま、ここにあなたがいてよい」という言葉、それを裏うちする財、などである。・・・(中略)・・・むしろ、「サバルタン論(という非サバルタンが考え出した知的な装置)をサバルタンに届けるということの挫折」を露呈するものこそが、サバルタン論なのである。言い換えれば、非サバルタンにしか届かないということを、非サバルタンに心の底から自覚させようとするものこそ、サバルタン論なのである。

それでは、サバルタン論の研究者の仕事とは何か。まずは、そうした「サバルタンが世界に存在するということ」を示していくこと、と同時に、サバルタンサバルタンであるために抱えざるを得ない生きづらさを減らしていく、すなわちそのような不正義な社会を変えていくことなのである。(後略)

font-daさんとx000000000さんの両者は非常に重要な論点を提出していると思うし、また両者のズレのように見えるものもまた、たいへん興味深い。

そのうえで、さらに先に進めて考えてみる。

x000000000さんは、いまここでサバルタンに必要なものは、物質的・精神的基盤、言葉、財などであるとする。言わんとすることは充分に理解したうえで、さらに思うのは、「あなた」と呼びかけている対象の人物が「サバルタン」であるということが、なぜ分かるのかという点である。すなわち、サバルタン論の極北においては、「いったい誰がサバルタンなのか我々は分かってはいけない」というテーゼがあるのではないか。この人に財を配分しなくてはならないとわれわれが考えた瞬間に、その人はわれわれによって「非サバルタン」へと振り分けられたのではないか。

すなわち、「世界にサバルタンがいる」ということは主張できても、ある人を指さして、「ここにサバルタンがいる」とは主張できないのではないか。できない以上、個々のサバルタンを指定したうえでの財の再配分や言葉がけは、理論的に不可能なのではないか。

これ上記の私の論[←kanjinai追記]はきっとスピヴァクサバルタン論からの逸脱であろうと私は思う。だからといって無視してよい論点だとも思えない気がする。と同時にkanjinaiはまた変な方向に話を持って行ったような気もする。

というわけで、まあ、ぼちぼち考えていきましょう。