本田由紀編『若者の労働と生活世界』

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

フリーター、ニート、ワーキング・プア。他方では、過重労働、過労死。若者はいま、どのような「労働」のただ中を生きているのか。この本は、社会学的視点から、回答を与えようと試みる。その中でも最後に収められた、湯浅誠と仁平典弘との共著論文「若年ホームレス――「意欲の貧困」が提起する問い」は際立って面白い。

ここで注目したいのは、若者バッシングと、それに対する批判者のあいだには、若者や社会をとらえるうえできわめて大きな相違があったが、そこでの賭金が若者の「働く意欲」である点で、両者は共通の土俵に立っていた、ということである。つまり、若者バッシング論が、若者の意欲の問題――働く気がない――と表象する一方で、その対抗言説の多くは、「本人は働きたがっているが、仕事がないという社会的・構造的問題に起因する」ということを強調していた。この対抗言説が、現在の言説空間において、きわめて重要な論点を提起していたことは疑いえない。しかし、その一方で、その処方箋が、労働市場の参入障壁を下げる、労働力の質を高めるという方向だけに閉じられるとき、そこに見落とされる問題はないのだろうか。(p.330、強調引用者)

「働く意欲」によって両者を分かつ分割線は、そんなに強固なものなのだろうか。生の可能性を縮減されるただなかで、「でも働くしかない」と思うことと、「もう働けない」と思うこと、あるいは「働きたいと思い、体が動くこと」と、「働きたいと思っても、体が動かないこと」とのあいだには、いかなる違いがあるのだろうか。むしろ、縮減される生のあり方自体を直視する視点が、言い換えれば「働く意欲があるが仕事がない」生と「例外」として病理化される生の両方をともに産出する構造自体を、包括的にとらえる視点が必要とされているのではないだろうか。(p.331、強調引用者)

そして、湯浅と仁平は、「人を包み外界からの刺激からその人を保護するバリヤーのようなもの」として「溜め」の機能に注目する。「溜め」は、経済的なもののみならず、人間関係や精神的なものをも含む。多様な人間関係資源に包まれ、ゆとりや自信を保持することもまた、その人の「溜め」になると論じる。この視点は、2人も述べるとおり、アマルティア・センの「基本的ケイパビリティ」からの連想概念である(p.341-342)。この論文は、非常に重要な提起をしていると考えられよう。もとより、この本自体が、今後のフリーター、ニート、過重労働等の問題を考えていくときに広く参照されるものになるだろうと予測する。
5月の新刊のなかで、この分野のものを私は以下の2冊も併せ読んだ。どちらも、重要な問題を提起している。この分野に関心がある人は、必読といえるのではないだろうか。

非正規労働の向かう先 (岩波ブックレット)

非正規労働の向かう先 (岩波ブックレット)

追記:Arisanさんが、本田編本をもとに思考されています。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070524/p1