暴走する九鬼周造先生

私が真の哲学者に感じるのは、一種の「暴走感覚」だ。ニーチェの暴走感覚はまた格別だが、フロイトフーコーにもそれを感じる。日本では、なんと言っても九鬼周造だろう。私は、日本の哲学者では彼にいちばん才能を感じるのだが、それは私が九鬼の暴走に惚れ込んでいるからにちがいない。

九鬼の代表作のひとつに『「いき」の構造』がある。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

九鬼は「いき(粋)」とは何かを哲学的に考察する。九鬼によれば「いき」とは、「媚態」というものが、武士道にもとづく「意気地」と、仏教にもとづく「諦め」によって、完成させられたものだ。九鬼曰く、「いき」とは「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」である(29頁)。

「恋」は「いき」じゃない、「「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ」(28頁)とか言ってる時点で、もうかなりヤバイのであるが、これなどは序の口であろう。

それで、「模様」のなかでは何が「いき」か、という話になって、九鬼は「縞模様」が「いき」であると言う。なぜなら、「永遠に動きつつ永遠に交わらざる平行線」が、「いき」の本質であるところの、武士道にもとづく「意気地」と、仏教にもとづく「諦め」の<二元性>を、もっともよく表わしているからだ。(63頁)

そのうえで、九鬼は断言する。

まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。(64頁)

九鬼は堂々としたものである。その理由をちゃんと説明してある。なぜ横縞よりも縦縞が「いき」なのかと言えば、それは人間の目が横に二つ並んでついているからである。横に並んだ目は、横縞よりも縦縞のほうを、容易に平行線として知覚する。つまり、縦縞のほうが、上記の「意気地」と「諦め」の<二元性>を、はっきりと意識することができるからである。だから縦縞のほうが「いき」である、と。

九鬼は、これだけでは説得力不足だと思ったか、次のように付け加えている。

なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。横縞には重力に抗して静止する地層の意味がある。縦縞には重力とともに落下する小雨や「柳条」の軽みがある。(65頁)

まったく論証になっていないのだが、私は九鬼のこういう文章に実は惹かれる。さらに九鬼は書く。

例えば、すらりとした姿の女が横縞の着物を着たような場合、その横縞は特に「いき」である。およそ横縞は場面を広く太く見せるから、肥った女は横縞の着物を着るに堪えない。それに反して、すらりと細い女には横縞の着物もよく似合うのである。しかし横縞そのものが縦縞より「いき」であるのではない。全身の基体においてすでに「いき」の特徴をもった人間が、横縞に背景を提供するときに初めて、横縞が特に「いき」となるのである。(65〜66頁)

これが、日本を代表する哲学書に書かれてある文章である。ガチガチの概念分析のあいまに出てくるこのようなユルい文章も、実は計算尽くであるように思われる。

また、「いき」な色とは、ねずみ色、茶色、青系統の色だと九鬼は言うのだが、その理由はと言えば、

要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に<生き>ている。個人的または社会的体験に基づいた冷ややかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥(なず)まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿(かく)している。(74〜75頁)

分かるようで、何を言っているのかよく分からない。でも、かっこいい。

『いきの構造』は、最初のほうは、概念的分析をきちきちとやっているのだが、だんだんとそのうちに、自分の美感というか趣味というか、そういうものと論理とが混ざり合ってきて、途中からはもう、いったい論証なのか、オヤジの飲み屋の蘊蓄なのかさっぱり分からないという状態に突入し、こんな着物が「いき」だとか、こんな女が「いき」だとか、こんな建築が「いき」だとか大暴走をはじめ、怒濤のように終局に向かうのである。論理分析という装いを取ってはいるものの、この本の最大のおもしろさは、「俺が「いき」だと言うから、これが「いき」なのだ、文句あるか!」という九鬼の暴走感覚にある。ここまで言うと、京都学派のみなさんからは顰蹙を買うだろうが、私は、九鬼のこういうところを尊敬しているのである。私も九鬼のような哲学者でありたい。