「私」おばけのフッサール

フッサールはドイツ(オーストリア)の哲学者で、「現象学」の創始者。20世紀の哲学や社会学に大きな影響を与えた。その最晩年の主著が、この『デカルト省察』である。

デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

この本の中で、フッサールは、「我思うゆえに我あり」のデカルト原理にまで戻って、もう一度、確かなものとは何かをはっきりさせようとしている。不確かかもしれないものをぜんぶカッコに入れて除外していくと、結局、「私」みたいなものだけが残る(これはデカルトがやったこと)。でも、すぐに問題になるのは、じゃあ、「他人」っていないの?ということ。「他人」がいることまで不確かだって言うのなら、それは「独我論」じゃないのか?

フッサールは、それに答えて、いやいやそんなことはない。私の哲学は、一見独我論に似てるけれども、実は独我論じゃないんだよ、と言いはじめるのである。なぜかというと、「他人」つまり「他の私」というものの意味は、私の世界のなかでちゃんと構成されるからだよ、というのである。

私の生き生きした現在において、すなわち、「内的知覚」の場面において、私の過去がこの現在のうちに現れてくる調和的な想起によって構成されるのと同様に、私の原初的な領分において、そこに現われその内容によって動機づけられた共現前によって、異なる我(エゴ)が私の我(エゴ)のうちで構成されることが可能となる。(207頁)

つまり、他者は、現象学的には私の自己の「変様」として現われるのだ。(206頁)

フッサールは言う。「あなた」つまり「他我(もうひとりの私)」は、私の「私の世界」のなかで「構成される」。そしてそのように構成された「あなた」は、「私の自己の変様」にほかならない、と。そして実際に、私は、「あなた」とか「他人」というものを、そういうふうなものとして実際に了解しているはずである、と(265頁あたりでそういうことを言っている)。

しかし、そんなこと言ってたら、結局「あなた」とか「他人」とかいうものは、「私の世界」の内部で私が積み木のように積み上げて作り出すおもちゃみたいなものにすぎないだろう。それは、私の「外部」に現存するはずの「ほんまもんの他人」じゃないだろう!・・・ やっぱりあんたは独我論やん!

それに対して、フッサールは、いやいやそんなことはないのだよ、と言う。こういうふうにして自分の世界の中で「あなた」を作り上げるような「私」というものが、実は、客観的世界の中に、たくさん埋め込まれているんですよ。そのたくさんの存在者こそがほんまもんの「他人」なんですよ。と言うのである。

フッサールは、「私の世界」のことを、ライプニッツにならって「モナド」と呼ぶ。それで、「モナド」は実はたくさんある。

それゆえそれらは本当は、私自身をともに包括している唯一の普遍性に属しており、この普遍性は、共存するものと考えられるべきすべてのモナドモナド集団を一つにまとめている。それゆえ、唯一のモナド共同体、つまり、あらゆる共存するモナドの共同体のみが実際には存在することができ、したがって、唯一の客観的世界、唯一の客観的時間、ただ一つの客観的空間、ただ一つの自然のみが存在することができる。(250頁)

フッサールは、かくして、「私」の確実性から出発して、とうとう、「他我の存在」だけじゃなく、「唯一の客観的世界・時間・空間・自然」までも確実に存在するのだという結論にまで至っているのである。

私にとって存在するものは、すべてその存在の意味をもっぱら私自身から、私の意識の場からのみ汲むことができる、というテーゼが根本的な有効性を保持しながらも、独我論という仮象は解消されることになった。(268頁)

フッサールという人の、この力業にはほれぼれする。「私」→「他人」→「客観的世界・時間・空間・自然」が次々と論理的に導かれてくるなんて、嘘に決まってるやん。でもそれをあえてガリガリやってしまうところが大哲学者たるゆえんでしょう。もちろんフッサールの死後、このセオリーは間違っているよね、という意見が噴出して、もめにもめてます(たとえば意味は構成できても存在は構成できないだろう、とか)。でも、作品として読むときには、この本はたいへん面白く刺激的です。浜渦辰二さんによる翻訳もたいへんすばらしい。フッサールは本書のドイツ語版を見ることなく死んでます。ちなみに、この本のフランス語訳を担当したひとりが、レヴィナスだとのこと。なるほどね、レヴィナスの「他者」は、フッサールのセオリーの全否定という意味もあったんですね。