シュライエルマッハーの怒濤の生命論
一昨日もシュライエルマッハーについて紹介したが、今日もその続き。(一昨日のはこれ:http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070402/1175515159)
- 作者: シュライエルマッハー,木場深定
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1995/12/18
- メディア: 文庫
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最後のほうのページから引用する。
まずこれが完成され、次にあれが完成されなければならないなどと言うな! お前の気の向くままに、お前の気の向く時に、軽い足取りで進んで行け。お前がかつて為したことはすべてお前の内に残っていて、お前が帰って来たとき、それを再び見いだすのだからだ。
お前がいま何事かを始める場合、それがどうなるかなどと心配するな! それがお前以外のものになることは決してない。お前が欲しうるものは、またお前の生命に属するものであるからだ。行為において中庸を得ようなどとはゆめ思うな! 絶えず清新に生きて行け。お前が用いずにお前の内に蔵(しま)い込んでおく力以外には、いかなる力も失われることはないのだ。
お前が後にあのことを欲しえんがために、いまこのことを欲するな!(←kanjinai註:これ誤訳では?)自由な精神よ、もしお前のうちにあるある一つのものが他のものに使役されるといったようなことがあるならば、自ら愧(は)じよ! お前のうちにおいてはいかなるものも手段であってはならない。一つのものはまさに他のものと等しい価値をもっている。それゆえに、お前が何に成ろうとも、それをそのもの自身のために成らしめよ! お前が欲しないものを欲しなくてはならないなどということは馬鹿げた欺瞞だ! (136〜137頁)
はい、ここまで読んで、「あれ、ニーチェ?」と思った人は読書家さんです。ここだけ切り取ってしまえば、ニーチェと言われても分からないかもしれない。しかしシュライエルマッハーのこの本が出版されたのは1800年。ニーチェが生誕したのが1844年です。
これは、シュライエルマッハーが、老年に差し掛かったことを自覚しつつ、一方において老年を肯定しつつ、同時に、青年に向けてはっぱをかけてアジっている箇所。「美は乱調にあり」的な生命論が、とうとうと語られている。このあともっと続くのですよ。
生命論、生命の哲学というのは、宿命的に、このような怒濤の流れに乗ってしか発露してこないのかもしれない。平衡と静謐へと向かう哲学とはまったく逆の情念がないと、生命論は語れないんだろうか。しかし生命論は、世界史的にもまだまだ成熟してない。だから、もっとこれから可能性があるはず。怒濤の生命論と、平衡の生命論の2種類を開拓していければ面白いと思う。