シュライエルマッハーの生命論と「共鳴する死」

ちょいマイナーな神学者・哲学者のシュライエルマッハー(1768〜1834)の『独白』という本が、岩波文庫より刊行されている。

独白 (岩波文庫)

独白 (岩波文庫)

その中より一節:

生命と未来とについて思い及ぶたびに常に無情にも附きまとうこの陰鬱な念(おも)いよ! あるいは、友人は私にとって死にはしない、と言いうるのかもしれない。私は友人の生命を私のうちに受け容れる。友人が私の上に及ぼす影響は決して消滅することがない。けれども友人の死は私を殺してしまう。友情の生命はいわば美しい諧音の連続である。もし友人がこの世を去れば、共同の基音は絶えてしまう。もとより、内心にはその後に反響が長く続いて、音曲はなお熄(や)みはしない。けれども私という基音に伴っており、私のうちにおける彼のものとして私のものであったあの彼のうちの同伴的和音は死滅してしまったのである。彼のうちにおける私の働きは止んでしまった。つまり生命の一部分が失われたわけである。(115頁)

シュライエルマッハーは、こういうことを言っている。友人が死んでも、私の内部にある友人(の生命)は死ぬことはない。しかしながら、私と友人がともに紡ぎ出してきたあの二人のあいだの響き合いは、途絶えてしまう。それにともなって、友人の内部にあったはずの、響き合いの和音の片割れもまた、死滅してしまう。友人の死によって、生命はこのように断片化してしまうのである−−−と。

友人が死んでしまった経験のある人は、この言葉の意味するところのものを、沈潜とともに了解するんじゃないか。あるいは、脳死問題における「共鳴する死」(小松美彦)とか、「関係性としての脳死」(森岡正博)などを連想する人もいるかも。

小松美彦的に言えば、生命というのは、生きている個体に内部閉塞していると考えるべきなのか、それとも、生きている者たちのあいだに滲出して、場の広がりをもって存在している(共鳴している)と考えるべきなのか、ということか。私としては、生命は個体に必然的に内属しながらも外部に必然的に滲出しているものであり、それが生命の本質なのだと考えてみようとしている。