池田晶子『暮らしの哲学』

暮らしの哲学

暮らしの哲学

 急逝した池田晶子さんの遺作のひとつ。『サンデー毎日』に連載されたエッセイをまとめたもの。訳あって読むことになったが、実は、あまり面白くない本だった。池田さんは、「自分の言うこと、書くことは、あまりにも変わっていて理解が難しいけど、実は常識的なことを言っているだけで、読者がその真理に気づいてないだけだ」、というふうにずっと言うわけだけど、存在の奇跡や、生と死の不可思議や、永遠の今の境地から見たときの社会的言説の無根拠さなどは、哲学的思考に親しんでいる者からすればきわめて当たり前のことがらであって、読んでいてまったく面白くない。

また池田さんは、自分の書いていることがあまりにも「変」だから、自分の文章を読んで発狂する人もいると書いているが、実は池田さんの言っていること自体は凡庸だし、そのわりには記述が混乱しているから、その混乱した文章を理解しようとして、頭が混乱する読者がいるということだけではなかろうか。

こういう文章って面白いかなあ。

私が自分が天才であることに気がついたのは二十二の時です。その時、世間と自分とのこのギャップの意味を理解しましたが、だからと言って、生き易くなったわけではありません。逆に深く困惑しました。「どうしよう、私は天才だ!」(222頁)

それで、天才の養老孟司氏に「あなたは変わっている」と言われるのだから、私も「大したもんですね」とのことだ(224頁)。

言葉(ロゴス)が宇宙を創った。言葉は神であったというこの文脈での「言葉」、言葉=ロゴスというこれが、物書きとしての私の言語感覚に、最も近いものです。日本人では見たことがないと、よく言われます。(63頁)

最後の一文の意味はよく理解できないが、まさか、言葉=ロゴスという言語感覚をもった日本人は池田さん以外にはほとんど見られない、ということか?

格差社会については、こう言う。

いや特攻隊員の命なんて、明日をも知らないどころじゃない、明日には「ない」ということが確実に知れている、そういう命だったわけですよ。そういう命のあり方に思いを致すことが、そんなに難しいことでしょうか。格差社会を生き延びるのが大変だなんて言いたくなったら、特攻隊員として敵艦に突っ込んだ時の気持を、思い出してみるのがいいのだ。(18頁)

全体としての印象で言うと、この人は哲学というものをナメているという気がする。存在の奇跡と無根拠性に気づくのはたしかに大事だが、すべてをそれに落とし込んでそれを哲学だと呼んでいるところや、それらに気づいた自分はすごい、と誤って思いこんでいるらしいところが甘いと思う。他山の石である。

ただし、この本で唯一面白かったのは、飼っていた愛犬が死ぬところと、父親が死ぬところ。もっとも哲学的(池田的な意味での)ではないところの描写がもっとも生き生きしていて、良い文章になっていたように思う。