竹内敏晴『生きることのレッスン』と身体の言葉

『ことばが劈かれるとき』の著者、竹内敏晴さんの新刊を読んだ。竹内さんは、竹内演劇研究所を主宰している。

生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち

生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち

竹内さんへのインタビューだが、前半の半生記もなかなか面白い。敗戦直後の様子など、興味深いものがある。

身体のレッスンのことも面白い。小児マヒの後遺症であるという発話障害?をもった女性の発話を聞いて、

私はギョッとしました。どうにもならない障害をもった人だということを、自分がまったく考えていなかったことに、気がついたんですね。自分はからだの問題をずっと探ってきたのに、かの女が固定化した障害をもっていることに思いが及ばなかった。そういう自分とはいったい何なのだろう、と。それが大きなショックだった。そして次にきたのは、そういう障害を、どうして私のからだが感じ取れなかったんだろうというショックです。その二つのショックで、棒立ちになっていた。(155頁)

その日から、竹内さんは、彼女の発話を自分の身体で真似して、考えてみる。そして、レッスンのときに、みんなの前で次のように言う。

それにみんなが意見を述べたわけですが、私の番になったとき、私はほとんど目をつむって、あなたはこういう話し方をしますとって、いきなり「わ、わ、わたしは・・・・」と、かの女の真似をやってみせました。かの女が「そうです!」と叫んだ。私は、目を上げられなかったが、つづけて「こうやっていると、私のからだのなかに、ふしぎな感じがおこる。自分は子どものころに聴覚言語障害があった人間だが、その正直な感じからいうと、うまくことばが出ない人間がひっかかるというのは、なかにしゃべりたいことがいっぱいつまっているのに、どうしてもそれが外へ出てこないということだ。ところが、あなたの真似をしていると、私のからだのなかに、しゃべりたいことはないのに、意志だけで口を開け、意志だけでしゃべろうと努力しているという感じがしてくるんです」といい切った。(156〜157頁)

これがどういうことだったのかというのは、本書を読んでみてほしい。各方面に多大な影響を与えてきた竹内さんだが、すごいと思う一方で、オカルト寸前という危なさもある。客観的に確かめようのない世界で勝負しているから、いつ不思議な領域に踏み入れてしまうかもしれない。だが人々が、ワークや演劇に惹かれてしまうのは、きっとこの危なさがあるからだろう。