鷲田清一『思考のエシックス』と「他者」

思考のエシックス―反・方法主義論

思考のエシックス―反・方法主義論

鷲田さんの新著で、「他者」について議論されている。レヴィナスの路線で考えていこうとしている。

傷ついた〈顔〉にふれるとき、わたしはすでに他者の呼びかけに晒された、あるいはそれを迎え入れたわけであって、まさにそのような他者の苦しみの受信者として自己を認めるかどうかという反省は、言いかえると手をさしのべるかどうか、ともに苦しむのかどうかという選択は、この接触にとって事後的なものでしかない。わたしはすでにもう切迫に応えているのであり、それに相対するような距離は、接触が断たれたあとに生まれるのだ。他者のこのような切迫にふれつつそれを忘れること、判断を停止することは、それだけでもう他者への暴力となりうるというわけだ。(161〜162頁)

「他者」の到来が「先に」あること、そしてそれを忘れることが「暴力」になりうるという指摘がなされる。そのうえで鷲田さんは次のように言う。

われわれは他者に遭う。他者との遭遇はあらかじめ予測や選択ができないものであるかぎりで、偶然のものである。自分が他者を選ぶのではなく、他者と遭うのだということ、このような偶然性のなかでわれわれの社会性は生成する。そしてこの偶然性、この予見不可能性が、そこで遭われる者の「尊厳」を形成する、そのように考えることもできよう。(163頁)

「他者」の到来と遭遇が、人間の「尊厳」を形成するという主張は、たいへんおもしろい。ふつうは、他者を単なる道具として扱わないことが「人間の尊厳」だというような、カント的な理解になると思われるが、鷲田さんのこの指摘は、それとはまた別の道筋を暗示しているように思われる。大注目したい。

「人間の尊厳」の新たな解釈については、私も「生命学とは何か」(の後ろのほう)で議論した。「人間の尊厳」というテーマは、まさに現在的なトピックであるし、もっとみんなで議論を深めていくべきだと思う。

鷲田さんは、いつぞや拙著の解説を書いてくれたけど、夏から大阪大学総長になっちゃうし、偉くなってしまわれましたね。研究会などでお会いする機会は減ってしまうのかな。