ウェブに「他者」は現われるのか?

kanjinaiはgordiasの主催者のひとりとして、いままで何度かコメントを削除してきた。そのうちの一件の削除に関して、コメントで渡邊良樹さんという方が違和感を唱えられた(削除されたコメントは別の方のものである)。そのコメントの中で、下記の部分は、改めてエントリーを立てて考えてみるに値すると思ったので、とりあえずここにエントリーを立ててみる。

その部分を引用する。

遠く離れた難民とか言葉を交わすこともなかったホームレスに対してはきわめて共感的なのに、現実に対話している相手とのやり取りがすぐに切れるのも不思議です。反論も何もして来ない相手にだけは、ほしいままに同情できるという風に見えてしまいます。

kanjinaiは、自分が管理人の役割をする掲示板(類)においては、書き込みは管理人が恣意的に問答無用で削除できる、削除の理由は開示しなくてよい、削除に関しての議論は受け付けない、という方針で運営してきた。掲示板は基本的に開設者の私的管理領域であり、そこでは公共的で民主的な議論は不可能である、という考え方をkanjinaiがもっているからである。kanjinaiはgordiasにおいてもそれを踏襲しているし、今後も踏襲する。

渡邊さんの批判は、それに関連している。いままで、アフガニスタンの難民や、ホームレスへの共感、というような話題をしてきていたのに、自分の掲示板に現われた「都合の悪い他者」の書き込みについては問答無用で削除するというのは、ダブルスタンダードなのではないのか、という趣旨の批判だと私は解釈した。

さらにこれを敷衍してみよう。つまり、アフガニスタンやどこかのホームレスという、いまの自分に危害が及ばないだろうような他者に関しては、「他者と出会わなくてはならない」とか「援助しないのはおかしいのではないのか」という姿勢を取りながら、実際に自分に危害が及ぶような他者が掲示板に現われたら、それと対話するどころか、問答無用に削除してそれを切り捨て、目の前から消し去っているではないか。その姿勢こそが最大の問題ではないか、というわけである。(これはkanjinaiによる再構成・再解釈である)。

ここで言わんとされていることを、私は理解できるし、大筋は賛同できる。しかし私には一点だけ異論がある。それは、ウェブに現われてきた都合の悪い書き込みというのは、はたして「他者」なのか?という点である。私はそれを「他者」であるとは考えていない。

私が道を歩いていたときに、私の前で倒れていたホームレスの人は、そのとき私にとって都合の悪い「他者」であった(これは私の事実体験であるということは前にも書いた)。私はその「他者」からの問いかけから逃げた(と私は思った)。私はこの生身の体でその人を助け起こしたり、救急車を呼ぶことはできた。が、しなかった。そのことが私をいままで追いかけてくるという意味でも、それは「他者」であったと思う。

これに対して、昔(このブログ開設はるかはるか以前に)私の掲示板に粘着的な書き込みを繰り返してきた人たちは、この意味での「他者」ではなかったと私は思う。彼らと私の延々と続いたやり取りのなかで、彼らは私からの批判をすべて自分のパラダイムに変換して解釈し、彼らの基準でもって私に反論し、私もまた自分のパラダイムでそれを変換して解釈して彼らに返し、双方とも互いにまったく「ゆらぐ」ことなく、これが延々と続き、ささいな揚げ足取りが永遠に分岐し、やりとりをやめようとすると「あなたは逃げる気か」「それは卑怯ではないのか」「民主的ではない」「説明を求めます」の応酬となり、最後には疲れ果て、徒労感だけが残り、掲示板は荒れ果て、人々は去っていった。掲示板でのやりとりがこのような応酬へと変貌するきっかけといえば、実は、ささいな言葉尻であったり、単語表現であったり、であることが、いまではよく知られている。そしてこのように展開していくやりとりに、「他者」は実は現われていない、というのが私の考え方である。そこにあるのは、粘着的な自己確認の応酬でしかない。

なぜそこに「他者」が現われないのか。その理由のひとつは、現在の電子コミュニケーションに、「生身の肉体」が現われないからだと私は考えている。そこを切ったら血が出るし、そこを愛撫したら暖かくなるような「生身の肉体」がネットにはない。そこには「他者」は降りてこない。

上記のような体験をしてから、私は、ネットには「他者」との出会いを探さないようになった。そのかわり、私が生身の現実で必然的に出会う「他者」と真摯に応接しようと思うようになった。私はいまそのように生きている。したがって、私は一見ウェブ中毒であるが、実は同時にウェブ・ペシミズムなのである。

「じゃあお前はこういうブログを作って何をしようとしているのか?自己確認をしたいのか?」というふうに問われるだろう。私は、仲間と一緒に、ここで、意見公開と、情報交換と、意見交換と、可能な限りの学び合いをしようとしている。しかし「他者との出会い」というような奇跡をここで得ようとは思っていない。ではこう言われるかもしれない「あなたがそういう姿勢を取ることによって、あなたは、他者からの声がウェブに降りてきたときにそれを見ることなく、不当にも目を閉ざしてしまうことだろう。それはあなたの哲学に背くのではないのか」、と。それに対して私は答える「そういうことがないとは言えない」「だが、私はウェブよりも生身の世界のほうを愛している」と。

もちろんこれは極論ではある。そのことは分かっている。しかし私のウェブ観の基本はこれである。

もちろん、「いのちの電話」的なコミュニケーション、それは私がかつて(1993年)「意識通信」と呼んだものであるが、それがウェブで可能であることは事実である。しかしそれが可能になるためには、どのくらいの条件と偶然が伴わなければならないか。それは誰でもが見れる公開の掲示板で実際可能なのか。この点についても私はいまペシミスティックである。

問題点が広がりすぎてしまったが、ウェブに他者は現われるのかという点は、大きな論点であると思う。私の以上の考え方は極端であるだろうし、ほかにも様々な考え方が可能だろう。
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追記

id:mojimojiさんによる応答「他者を歓待するブログについて」が、G★RDIASにゲスト投稿された。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070529/1180428267

それへの私の応答「ウェブに現われる他者の具体的検討」が掲載された。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070602/1180711842