宮台真司さん、モテを語る

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

幸福論―“共生”の不可能と不可避について (NHKブックス)

 三人の社会学者による鼎談。電車の中で少しづつ読んでおりますが、宮台真司さんが本書で「モテ」について発言している。興味深い論点が含まれているように思ったので、紹介したい。

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 オタク問題で言えば、ライターの本田透さんが、「自分たちオタクがモテないのは女が資本主義化しているからだ」というルサンチマンを、ネタとしてであれ振りまいています。ぼくに言わせると「まともな感情プログラム=”論理”」を欠いているという他ありません。
 女性の立場から見るとよく分かります。女にモテるために必要な要素は単純です。ぼくの周囲のナンパ師を見ても、本田さんの言うように「イケメンかどうか」とか「金があるかどうか」は関係ないんですよ。ナンパ師の大半には両方ありません。
 あるのは、コミュニケーションの力です。それも高度なコミュニケーション能力が必要というわけじゃない。誘惑術なんてまったく関係ない。たんに、女の子のことを理解してあげる力があればいいというだけの話です。
 ところが、これが昨今の若い男の子にとって難題みたいなんですね。たぶん昔の男にとっても難題だったのでしょう。でも、自由恋愛が当たり前になって四〇年近い年月がたち、女の子たちはますます一緒にいる時間の充実を追求するようになりました。昨今の若い男の子にこれに応える力がないのですね。
 これが若い男の子にとって難題なのは、理解に必要なキャパシティがないからというより、余裕がないからといったほうが正確かもしれません。自分のことで精一杯。何に精一杯かというと、自分を承認してもらうことに精一杯。ボクはこんなにダメな人間だ。コミュニケーションもできない。カッコも悪い。それでも「そんなアナタが好き」と言ってくれる、そうした「すべてを受け入れてくれる少女」というロリコン的な形象を追い求めるわけです。
 ぼくらの世代でも中学生ぐらいまではそういう幻想を抱いたりしました。ぼく自身もそうです。でもそこから先、そういう幻想をもつ男は、男のあいだでも軽蔑の対象になりました。だから、自分本位の幻想を捨てて、現実の女の子に対処しようと思ったわけですね。
 いまやオタクという言葉からは、侮蔑的な意味が消えつつあります。そのぶん、「全てを受け入れてくれる少女」というロリコン的な形象が、成人した後も維持されやすくなっています。女の子からすれば、まったく馬鹿げた要求だということになります。
 こうして、理解を求める女と、承認を求める男の、巨大なミスマッチが生じています。そのことは誰の目にも自明なはずです。彼らがモテたいと思うなら、「そんなアナタが好き」と言ってくれる女の子の登場を待ち望まず、理解の能力を獲得すればいいだけの話。
 まったく論理的な話でしょう。別にナンパ術がどうのこうのじゃないんです。こうした単純なことが分からないのも、「まともな感情プログラム」をインストールされていないからだと言えます。昔はわざわざインストールを考える必要はなかったけど、いまは違います。
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(p.30-32)

 宮台さんが「女の子のことを理解してあげる力があればいい」という部分は、なるほどと思う。私の観察でも、そのような男がモテているような印象はある。
 ただし、ここで「ナンパ師」が例に挙げられているのは、ちょっと微妙か。kanjinai さんのような立場(前日のエントリー参照)からすると、「ナンパ師的なモテ方=権力欲から脱却していない男のあり方」という意味になりそう。その意味で、批判の対象になりそうだ。