肥満である権利

言われなき差別を受けてきた人々は、差別をする社会に対して、われわれはいまのままでいいのだ、ありのままの私たちを認めよ、われわれは自己否定しなくてもいいんだ、と主張し、運動してきた。有色人種運動、障害者運動、フェミニズム、などなど。「ありのままの私でよいのだ」という意識が、彼らをエンパワメントし、社会の偏見を変える運動へと結実した。

米国には、肥満でもいいじゃないか、という運動がある。

その前に、この記事を見てみたい。

警鐘にもかかわらず…専門家アキレた超肥満の増加ぶり

シンクタンクランド研究所は9日、体重(キロ)を身長(メートル)の2乗で割った体格指数(BMI)が40以上の「超肥満」の米国人が2000年から05年までに1.5倍に急増したとの研究報告を発表した。

 BMI30以上の人の増加率は同じ期間に24%にとどまっており、超肥満の急増ぶりが際立つ。より肥満度の高いBMI50以上の米国人はこの間に75%も増えており、専門家は「肥満が健康に及ぼすリスクがこれだけ指摘されているにもかかわらず、驚くべき増加ぶり」と警鐘を鳴らしている。

 BMI40以上となる体重は、身長175センチの男性の場合で約135キロ。
http://www.zakzak.co.jp/top/2007_04/t2007041018.html

これは、たしかにそのとおりだろうと思う。昨年、米国に10日間ほど滞在したが、彼らのあまりの肥満ぶりには仰天した。私が1991年に米国に住んでいたときとは比べものにならないくらい肥満の人々が増えている。日本にいたのでは、米国の肥満状況は分からない。なぜなら、テレビや映画などが彼らの姿を映さないからである。しかしいったん米国に行くと、すぐにそれが目に入ってくる。シカゴ空港で、オルバニー市のモールで、日本では想像できないくらいの肥満の人々が、しんどそうに歩いていたり、車椅子に乗って移動していたりする。シカゴ空港では、搭乗の列に並ぶ時間のあいまに、居ても立ってもいられず巨大なチョコドリンクを買って立ち飲みする肥満の人を見た。ポテトやチキンを歩き食いしている大人もかなり目立つ。米国の彼らを見ていると、日本での肥満など、まったく問題にならないくらいだ。小食の私から見れば、彼らが食べる量は、異様の一言に尽きる。モールでフレンチフライを食べた私はいきなり胃炎になってしまった。油の質と量が違うのである。

ところで、こういう私の言い方それ自体が「肥満差別」である、という批判がある。米国でそれを強く主張してきたのが、NAAFA(National Association to Advance Fat Acceptance http://www.naafa.org/)である。彼らは、上記のような、肥満者への偏見や差別の視線を糾弾してきた。人々はどんなサイズであってもよい、肥満だからと言って軽蔑の視線を受けてよいはずはない、肥満が不健康であるということはない、人は肥満であってもよいのである、と主張する。

まさに「ありのままの私でよい」という当事者運動の主張をしているのである。

その主張を前にして、私は、自分の肥満者への視線を考え直すべきではないかと思ってしまう。私はシカゴ空港で、立っているのもしんどそうな肥満の人が、山盛りのフレンチフライを黙々と食べているのを見た。しかしその人には、そうする権利があるのであり、ありのままのその人であっていいのである、ということだと言われれば、たしかにそうであろうし、私が批判的なことを言ったり、視線を向けること自体が、彼らをくじけさせることになるのだと言われれば、その通りだと思う。そして、このようなブログポストを英語で書いたりしたら、非難が嵐のように降ってきてたいへんなことになるのだろうと思う。

世界には飢えて死んでいる子どもたちがいる、ということは、関係ないのだろうか。おそらく関係づけても仕方のないことなのだろうか。

上に紹介した、NAAFAや、類似のページを以前に見て以来、私はこの問題をどう考えていいのか、クリアーな答えが出せずにいる。タバコの場合は、私は分煙派ではっきりしている。しかし肥満の場合は、他人に危害を加えるわけではない。どんな人にも、ありのままである権利があるという主張は、障害者運動の主張を参照するかぎり、そのとおりだと思えるのである。

NAAFAは、肥満の多くは遺伝的な原因であると主張している。それはたしかにそうだろう。だがそれに加えて、食生活の要因が、悪化要因として働いていることはたしかであろう。(白人に限れば)同じ人種のヨーロッパよりも米国の方が肥満の人が多いように見える。HAAFAも、食生活の改善の必要は認めている。だとしたら、肥満であることそれ自体はそれでよいが、食生活は変えたほうがよい、ということだろうか。しかし、どうして他人に食生活を変えろと言われなければならないのだろうか。食べたいものを、食べたいだけ食べる、これこそが自己肯定ではないのだろうか。そこを社会の中で肯定しないかぎり、肥満の人の社会的肯定も、あり得ないのではないだろうか。みなさんはどう思いますか?