「本当は、できるでしょう?」という暴力

老親への介護などの場面で、「介護をしたくない」と言うべきときに、「介護をすることができない」と言い換えようとするところ、そしてみんながその言い方を許してしまうところに、「姥捨山問題」の萌芽があるのではないかという問題提起を、x0000000000さんが行なっている。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830

x0000000000さんは、さらにこうも言う。「「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか」(上記URL)。

それに対して、id:font-daさんが、そういう「本当は、できるでしょう?」という言い方自体の中に、介護などの現場で揺れ動いている人々を追い詰める別種の暴力が潜んでいるのではないか、と批判している(ように私には見える)。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070407/1175955958

 「本当にできるかどうかは、やってみなくてはわからない」もちろん、それはそうだ。それで、やってみて「やっぱりできませんでした」では済まない。だからこそ、苦しむ。しかし、そこで苦しむことを目的としない形で、倫理を語らなければならない。そうでなければ、介護=苦しみという言説は、「もっと苦しめ、苦しまなければ<本当の>介護ではない」という不幸の美学が入り込んでくる。不幸の美学の中では、「私は<本当は>できたはずだ」という思いの中で、目の前の認知症者とのかかわりは精彩を失い、「こんなダメな介護者としての私」ばかりが浮かび上がる。そして、オルタナティブとして施設が再び理想化されて「施設にいれてあげなさい」という結論が導き出される。

問うことは必要だ。しかし、問う以上は、答えられた後、どうするのか。問うた側は、問題の外部にいることはできない。

 「本当はできるでしょう?」と問うたあと、その問いを向けられ取り乱す問われた側を、どうするのか。問う側が問われるのは、その覚悟である。

つまり、「できないんじゃなくて、ほんとうはしたくないんでしょう? ほんとうはできるんでしょう?」と問い詰める者がいたときに、その者は、そう問われた相手の揺らぎやら葛藤やら自罰やらそこから出てくるかもしれない自傷やら絶望が生み出すであろう「強力な磁場」からもう逃げ出すことはできないはずだ、ということか。問うことの暴力によって返り血を浴びるということから逃げることそれ自体が「姥捨山問題」を生むということなのか? それとも、そう問うことの暴力性に無自覚に問うことが、もっとも罪深いということなのか?