『マックス・ヴェーバーの哀しみ』

これはなかなかの問題作だろう。私はヴェーバーの専門家じゃないから、内容がどのくらい妥当なのかは判断できないが、「プロ倫」が、母親の呪縛、父と母との結合の願いだったという説は、なにか腑に落ちるものがある。あのデモーニッシュな余韻のある読後感もまた、ヴェーバー自身の病と、プロテスタンティズムに対する裏側からの怨念からだと言われれば、そうかもと思ってしまう。本書中で、例のバニヤンの印象的な箇所がヴェーバーの捏造だったという指摘は、興奮する。もっともヴェーバーのプロ倫捏造論は著者の前著で触れられているので、そっちを見るべきなのだろうけど。あとがきで折原大先生からの批判に対する宣戦布告もあって、にんまりしてしまいます。

というのも、折原大先生は、羽入の前著「マックス・ヴェーバーの犯罪」に対して次のように警鐘を鳴らしておられるのです。

現在の状況を考えると、羽入書が、「放っておいても自然に淘汰される」代物とは考えにくい。管見では、受験体制の爛熟、大学院の粗製濫造、学位規準の意図的引き下げといった構造的要因により、分からないことを分からないと認めて分かろうと努力する根気がなく(「大衆人」化)、逆に、分からない相手に「杜撰」「詐欺」と難くせをつけて、分からない自分のプライドを救い、あわよくば世間をあっと驚かせて学界デヴューも飾ろうという、幼弱でエクセントリックな願望が、羽入のみでなく、若い世代に広まっている。そこで、こうした風潮に「賞=ショー」を出しておもねながら、翻って当の傾向をバック・アップしようとする勢力も現れるし、読者の側にも、羽入書を歓呼して迎え入れ、その「共鳴盤」にもなりかねない「羽入予備軍」が形成されている。羽入書は、この統計的集団に秋波を送ってエンタテインしようとしているし、版元も、この層の広がりを当て込んで、際物と知りつつ売り込みをはかっていると思われる。仄聞するところ、大学の生協書籍部には、羽入書が「平積み」にされているという。こういう状況を放っておくと、「悪貨が良貨を駆逐し」、先達の根気よい努力によって築き上げられてきたヴェーバー研究の蓄積をつぎの世代に引き渡し、乗り越えを促し、わが国の歴史・社会科学を発展させようにも、担い手が育たなくなる。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Orihara%20Hiroshi%20Essay%20Mirai%20200401.htm

ひさびさに聞く折原節でございいます。

その後の論争?はここで読めます。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm

盛り上がっているなあ・・・・。