謝罪を受け入れるということ

上祐前代表、河野さんに謝罪 松本サリン事件

 94年にオウム真理教アーレフに改称)が起こした松本サリン事件をめぐり、教団の上祐史浩前代表らが19日、被害者で第一通報者の河野義行さん(57)と長野県内で初めて面会し、上祐氏が「事件について、教団の外報部長時代にうそを話した。麻原(松本智津夫死刑囚)の教義で迷惑をかけた」などと謝罪したことがわかった。河野さんが20日、報道陣に明らかにした。
http://www.asahi.com/national/update/0920/TKY200709200113.html

詳しい情報がないし、これだけではなんとも言えない部分が多い。
 河野さんは森達也の映画の中でも、謝罪の受け入れを試みてきた。*1今回の謝罪の件では、河野さんは「『謝罪については好意的に受け止めた。私や妻に謝罪することで、気持ちが落ち着くのであればそれでいい』と話した。」と記事(asahi.com)に書かれている。
 私は、謝罪とは、被害者の為にではなく、加害者の為に行われるものだと思っている。河野さんは、「謝罪すること」を許した。このような問題には、慎重になりたい。しかし、看過できないひとつの出来事のように思う。いまだ、オウム真理教の事件は終結していない。*2

*追記:

トラックバック先で、以下のコメントがありました。

加害者に謝罪すること許す、とは、加害者の贖罪を承認すること。しかし、神以外の誰が贖罪を承認できるのか?

shu1「謝罪を受け入れる、ということ」『音楽(だけじゃない)漂流記:日記』(http://d.hatena.ne.jp/shu1/20070921#p2

この点は、私も非常に興味があります。が、私は、「ゆるし」という言葉を「許し」(permission)と「赦し」(forgiveness)にわけて考えています。今回は「許可する」という意味で「許し」という言葉を使いました。よって、私はこの記事から、「和解が遂行された」とは類推していません。(もちろん、二つの両者の「ゆるし」の連関については、丁寧に論じる必要があると思っています。)
 以上、補足でした。

*1:「A」らしいのですが、私は見逃しています。

*2:そして、多くの事件が、「何をもって終結とするのか」という困難な問題を抱えている。