価値判断と学問

この共同ブログを開始してもうすぐ半年経とうとするが(早いなぁ…)、改めてこのブログの趣旨を確認すると、「現代社会における正義・テクノロジー・宗教・性などの「解けにくい結び目」を解きほぐすための情報と議論を提供するものである」。つまり、扱うテーマとしては、主に、正義の問題、科学技術の問題、宗教(性)の問題、性や障害など「異なる身体/精神」を生きる者たちに対する考察、などである。
節操がない、と思われる向きもあるかもしれない。しかし、これらのテーマたちじたいが、私の中ではつながっている。
それは、「私たちが学問をすること」と、「私たちが価値判断をすること」との間のスタンスをどうとるか、という問いに、すでに答えてしまうようなテーマ群であろう、ということである。eireneさん、font-daさん、kanjinaiさんに直接聞いたことはないが、この半年のエントリを見ていると、個々人の中で別様ではあるが、それら二者はつながっている、と見てよいだろう。私もそうである。それがよいかどうか別にして、ブログ主である私たちが「学問をする」すなわち「科学的・整合的であろうとする」とき、それ以前に「ある価値判断をしている」のではないか。
ところで、価値判断、とりわけ政策におけるそれと、学問とを分離しようとした学者がいる。ご存じのとおり、それはマックス・ウェーバーである。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

ウェーバーは、自己の政治的な立場を、学問として教えることに反対する。彼の活躍した時代が、ナチスの勃興してくるワイマール福祉国家だったという制約はあるかもしれない。だが、正確に言えば、彼も政治的立場を持つこと自体に反対しているわけではない。それを教師という特別な位置から生徒に教え込もうとすることに反対している、つまりは、意見の言い合いがほとんど不可能な権力性の磁場の下で、一方的に権力あるものが教え込もうとしていることを批判している、と私は解釈している。
自己の信ずる立場を、遡及的に還元していくと、もうこれ以上還元し得ないところに行きつく。私はそれこそが、「私の宗教性」のようなものだと考えている。そして、そこにこそ超越論的視点がかかわらざるを得ない。そこにおいて、整合的・科学的な体系を構築するのが、理論系の研究者の1つの仕事であると考える。
ただし、「私の宗教性」なるものも、決して不動ではないという直感もある。それは、私の個人的な経験からは、「他者との出会い」によって揺れ動かされてきた。それはもう、「自分で選び取る」というよりは、「否が応にも選び取らされる」という感覚である。ただし、私の中では、そのように可変であるところの、しかし現在は1つであるとしか言いようがない「私の宗教性」のもとで価値判断を行い、それによって整合的・科学的な学問体系を切り開こうとしている。少なくとも私の中では、価値判断と学問、あるいは宗教性と科学は、このように結び付いている。