桐野夏生「残虐記」

残虐記 (新潮文庫)

残虐記 (新潮文庫)

 文庫化されていたので、読んでみた。30代の女性小説家が、失踪の際に残した原稿という形で物語が綴られる。主人公は、10歳のときに、1年間も青年に誘拐・監禁されていた被害者である。そして、主人公のもとに加害者の手紙が届く。物語では、主人公が事件の真相と、事件後の展開を告白し、考察が進んでいく。綴られている内容は、私にとって異様であったし、こういう事件に興味がある人が読むと良いのではないか、と思った。
(以下、ネタバレを含むので閉じときます。)
 さて、巻末の解説で斎藤環が、この物語には二つの謎があると指摘している。そのうちの一つの謎をこう紹介する。

 第一の謎。それは物語の冒頭、作家である小海鳴海(生方景子)の夫の手紙にいきなり示されます。
 かつて生方景子は一〇歳の時に行員の安倍川健治に誘拐され、一年余りの監禁生活を経験思案した。逮捕され刑に服したケンジは、出所して景子に手紙を出します。手紙の文中で、加害者であるケンジは景子に謝罪するのですが、そのいっぽうで、景子が小説家になったことを「おこりたくなる」「ウソつきのおとになった」と非難するのです。その手紙の末尾は、こんな謎めいた言葉で終わっています。
「先生、ほんとにすいませんでした。でも、私のことはゆるしてくれなくてもいいです。私も先生をゆるさないと思います。(一六頁)」(248ページ)

この謎について、松浦理英子は少女であった景子の成長をゆるさないとしていると分析し、作者の桐野夏生自身は「自分でもよくわからない」という。斎藤さんは、次のように分析する。

 私自身は、ケンジの言葉について、やや異なった解釈を持っています。ケンジは、景子との「関係」をどうあっても維持したかったのではないでしょうか。なぜなら、「ゆるす」ことはしばしば、関係と物語の完結を意味するからです。
 しかし「ゆるさない」という態度をとることで、ケンジと景子との関係は維持されることになります。なぜでしょうか。「ゆるさない」と語ることにおいて、ケンジの存在は大きな謎をはらむことになるからです。そう、実はケンジは賢い。この「謎」は景子の心に棘のように突き刺さり、景子はケンジの心を繰り返し想像せずにはいられなくなるでしょう。
 もしそうだとすれば、失踪した景子は、ひょっとするとケンジに会いに行ったのかもしれません。少なくとも私にはケンジが「ゆるさない」ことと、景子が失踪してしまうことが、どうしても無関係には思われないのです。(250ページ)

この解釈は、半分正しいが、半分間違っているだろう。正しいのは、「ゆるす」ことは「しばしば関係と物語の完結を意味する」という点である。しかし、間違っているのは、「ゆるす」と言明することが「赦し」ではない、ということだ。逆から説明したほうがはやい。「関係と物語の完結」したとき、それがしばしば遡及的に「赦し」と呼ばれるということである。手紙に「ゆるす/ゆるさない」と書くこと自体は、「赦し」が行われたかどうかと直結しない。
 それでは、「赦し」とこの物語が関係ないのかというと、そんなことはない。何度もこのブログで引用しているデリダの「赦し」の概念をここで紹介する。

赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その傷が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります。もし記憶が喪や変形を意味するならば、そのとき記憶はそれ自体、すでに忘却になります。このような状況の恐ろしい逆説とは、そのような赦しを与えるためには、たんに加害や犯罪を被害者が思い起こす必要があるだけでなく、そのような喚起が傷が加えられたときと同じくらいなまなましく傷と痛みを呼び起こすのなければならないということです。

ジャック・デリダ「言葉にのって」(林好雄他訳)ちくま学芸文庫、202ページ

ケンジからの手紙が届く事によって、景子に起きたのはまさにこの傷と痛みを呼び起こすプロセスである。本文では、景子が自分の書いている原稿についてクライマックスでこう書いている。

 この文章は、私が死んでもパソコンの中に留まる、と以前書いた。だが、私はどうしても本当のことを書けないでいる。私は今日も二十五年前のノートの切れ端を眺め、先日受け取ったケンジからの手紙を読む。「私も先生をゆるさないと思います」。ケンジ、私も許しを請わないよ。私の目にしか触れない記録を書いているはずだというのに、そして、私は言葉を生業にしているというのに、言葉にできない真実が私を撃ってやまない。叫び起こされる感情が私を息苦しくする。(231〜232ページ)

このあと、景子は自分が1年間の監禁生活で、ケンジに恋をしたことを告白する。景子は、それが「ストックホルム症候群」などと周囲によって勝手に名づけられ、想像され食い尽くされる事を厭って誰にも言えなかった。実はこのことを示唆する箇所は中盤にもある。

 ここで奇怪なことが起きた。誰もわかってくれない、という気持ちはあんなに憎んだケンジの存在を浮上させたのだ。ケンジならわかってくれる、という思いを私は捨てさることができなくなっていた。私の加害者にして理解者。私をこのような運命に落としたのに、私を救うことのできる唯一の人間。私とケンジの関係はこうしてねじくれ、事件が終わってもメビウスの帯の如く、終わりのない関係になったのだ。(120ページ)

恋愛とは、他者を排除し、親密圏を確立することである。景子が幼いために恋愛だと勘違いしたわけでも、被害を軽減させるために恋愛だったという妄想をしているわけでもない。景子とケンジの間にある、2人だけの世界を、一般的な言葉でいうと恋愛になってしまうだけだ。被害から逃れ、いわゆる日常の世界に帰ってきて愕然とする。あのとき芽生えた感情は、状況は特殊であっても、表現する言葉なら恋としか当てはめられないものであったのだ。
 景子は、原稿を書きながら、恋愛だったと気づいたわけではない。あれが恋愛としか言葉にしようのないものであったが、そう言葉にしてしまえば、たちまち周囲の誤解を招き想像に食い尽くされることを知っていたから、口にできなかったのだ。だから、最後までこの原稿はパソコンに留めるしかない。では、なぜ景子は書いたのか。
 デリダは「赦し」について、こうも言う。

赦しのシーンには必ず証言があり、生き延びの事実があり、心的外傷の経験や暴力の経験を超えてひろがる時間の流れがあります。そしてすでに、そのような経験の独異性の中に、加害者と被害者が対面する独異性の中に、第三者の立ち会いがあり、何か共同体のようなものが告げられています。そこから、私たちが打ち明けねばならない当惑と、そして矛盾がでてきます。すなわち、赦しはひとつの対面の経験≪私≫と≪きみ≫の経験であるのに、同時にすでに、共同体、世代、証言、といったものがあるのです。赦しが与えられるにせよ与えられないにせよ、何かしらの言述がある以上、共同体の関与が、したがって、ある集団の関与があることになります。(デリダ、前掲書、208ページ)

景子は、誰にも知られることなくパソコンに留める、と書きつつ、実際には夫にプリントアウトした原稿を残し、編集者に届けるように書置きしている。ここで、景子はケンジにしか理解できないとした上で、それでも第三者に伝え証言し、事件の真相を聞き取る共同体を作り上げるのである。
 事件を記録し、他者に自らの持つ体験を明らかにすること、つまり、被害者・加害者だけの独異な関係性を解体し、他者に開くこと。このような景子が行ったプロセスは、デリダの言う「赦し」に近い。景子は最後に原稿を次の文章でしめる。

 ケンジが私を許さないのは当然である。しかし、今の私は書けなくなった自分を抱えて生きていくしかない。私の想像力は底を突いたかに見えて、実は巨大になり、私の表現を超えて、私自身を裏切った。私があの王国に憧れても、それは二度と手に入らないのだから。もう一度書く。私が死んでもこの稿がパソコンの中に留まって誰の目にも触れないこと、それが私の唯一の救いである。(233ページ)

私の解釈と斎藤さんの解釈は反対である。景子は、ケンジとの関係を終わらせ、過去のものとしてしまったのだ。ケンジとの関係を夢想し膨らませ「毒の夢」を生み出した想像力は、この原稿を書く中で、ついに、景子が毒と呼べない、もしくは毒こそを求めてしまうような、ケンジとの親密さを描き出し、告白へと景子自身を導いてしまったのだ。そして、告白することにより「赦し」のプロセスは遂行され、ケンジとの関係は完了したのである。
 斎藤さんの分析とは裏腹に、本文では、景子がケンジに会いにいった可能性は否定されている。ケンジの「ゆるさない」という言明は、景子をケンジとの関係に繋ぎとめたのではなく、そこを発火点として「赦し」という関係解体のプロセスへと向かったのだ。景子がケンジとの関係に繋ぎとめられたならば、景子は原稿など書かず、「毒の夢」へと帰っていけばよかった。
 景子が失踪したのは、むしろ、自分は景子の事件と結婚したという夫の元を去るためである。事件により繋がれた2人の関係性は、景子の中で事件が解体されてしまえば、蝶番が外れるように崩れてしまうのだ。
 もう、景子がケンジを通して想像するのは「毒の夢」ではなく、たんなる「夢」である。もう、体にたまった毒を吐き出す必要はない。そして吐き出せなくなった、という事実を受け入れるしかない。景子はケンジを忘れることはないだろう。一生、ケンジの記憶をベッタリ貼り付けて生きていくだろう。しかし、それこそが景子の「赦し」である。完了した物語を握ったまま、過去があるという事実を受け入れること。
 景子は「許しを請わないよ」という。それは「ゆるせない」こととは違う。「ゆるす/ゆるさない」を自己選択し、どちらにしろ過去は取り戻せないと認めることが「赦し」なのだ。もうケンジに何も求めないこと。「ゆるさない」と言われようが、「ゆるす」ことを求めず、「許しを請う」ことも求めない。景子は、赦すことによって、自分で自分を抱えて生きていくことできるようになる。それは被害者が、誰のものでもない、自分の人生を歩めるようになることができるようになる姿でもある。

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

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