オバサンの性的欲望は少年へと向かう

論座』2007年9月号で、信田さよ子が「ホントはこわい?王子ブーム」というエッセイを書いている。

まず、ペ・ヨンジュンファンの一部が、斎藤佑樹ハンカチ王子)に流れたが、信田自身がその典型だと告白する。まずは斎藤が、安定した愛情溢れる家族によって麗しく育てられてきたことが魅力であると言う。「すくすく育ち、イケメンでクレバー、ピッチャーとして豪腕」の斎藤は「無垢で光に満ちて」おり、彼を見ることで(自己)肯定への渇望を満たされるという。

と同時に、斎藤を追っかける男性カメラマンたちが、斎藤への同性愛的視線によって撮影していることに注意をうながす。そのホモセクシャルな視線をとおして、オバサン(信田の用語)は斎藤に性的欲望をかぶせているというのである。

さらに、甲子園での斎藤と田中奨大(元駒大苫小牧高投手)のカップルに、腐女子とオバサンは「ホモセクシュアルな性幻想を見て「萌えた」」だろうと指摘する。

信田は書く。

[オバサンは]男から見られ、性的欲望の対象たれという強迫から解放されるので、今度は見る主体になれる。どうせオバサンだからと開き直ることもできる。
 とはいえ、子育てを終え、生活時間の余裕と体力を持った彼女たちは、いつまでもなまなましくセクシュアルでもある。これらが相まって、−−男性がそうであるように−−若くみずみずしい異性に性的欲望が向かうことに何の不思議もない。ただそれは、侵襲的で支配的な男には向かわない。抑圧的な男らしさにはもう辟易しているのだ。
 安心して見下ろしたい、支配されることなく相手を享受したい、そんな立ち位置をとるのに絶好の対象がペ・ヨンジュンであった。そこを突破口としたオバサンたちの欲望の回路は、社会現象といわれるまでに韓流ブームを盛り立て、そして王子ブームに至る。(122頁)

いつの日か王子ブームも終わるときが来るだろうが、性的主体となった彼女たちの欲望の回路は、それを満たすべく新たな表象を求め続けるだろう。(123頁)

というわけである。非常に納得できる論旨であった。思うのは、これもまた、「女・エロス」を合い言葉とした70年代リブのひとつの帰結であり、勝利であるということである。またこれは既婚婦人や後家が美少年のイメージを求めた江戸のエロスへの回帰でもあるのだろう。

これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。もちろん現在でもこのような側面はあるが、今後はこれがさらに一般化し、顕在化し、露骨化していくようになるだろう。人間である前に、性的男であるということを外部からの性的視線によって自覚せざるを得ない、という時代を生きなければならない将来の男子たちは、いったいどのような性的主体形成をしていくことになるのだろうか。彼らもまた自分の性的身体を自傷し、援助交際への渇望を見せるのであろうか。