モテへのアドヴァイスは恋愛至上主義に加担するのか?

みなさんからの多数のコメントなどを参考に、再度、モテについて最初から考えてみる。

まず、人は恋愛する必要はない。モテる必要もない。私はそのように考えている。だから「恋愛できない男は、男じゃない、一人前ではない」という思想(恋愛至上主義)を私は否定する。もしそれが日本社会を分厚く覆っているのならば、それは解体されるべきである。これが私の基本スタンスなので間違わないようにしてほしい。

そのうえで、「恋愛したい」「モテたい」と心から思っている男の子に対して、私はアドヴァイスをしてあげたい。(これはモテなかった若き日の自分自身に対するunfinished businessという意味もあるのだろうと私は思っている)

まず第一に、「モテ」の概念を転換しておきたい。一般には「モテる」とはいろんな女にちやほやされて恋愛・性愛しまくれることだと思われている。私はこれを「モテ」という言葉では呼ばない。なぜなら、それは権力欲への願望にほかならないし、このようなモテは結局のところ恋愛の至福から疎外される結末に至るだろうから。(エントリー「男をバカにした『モテる技術』」参照)

私の言うモテとは、次のことである。「モテるとは、自分のほんとうに好きな一人の女から特別な好意を寄せられることである」(←ここ変更しました)。そしてこのような意味でモテるためになすべきことは、「その一人の女のことを心から大切にしたいと思っている」というメッセージを、その女のもとに届けることである。そのときに、注意しておかなければならないことがいくつかある。たとえば安全の確保、女の身になって考える、話をよく聴く、そしてその女ひとりだけに集中する、などである。これらについてのさらに詳細なアドヴァイスは、男の子たちにとって有益であろう。(キモい顔はさほど問題ではない)

モテる男とは、このように考えることができ、このように行動することができる男のことだ。ひとことで言えば、「モテる男とは、一人の女を心から大切にできる男のこと」なのである。それができるようになれば、その副次的効果として、まわりにいる女や男から、暖かい好感をもって見られるようになる。この副産物は、あなたの人生に軽やかな彩りを添えることであろう。

結局、いちばん大事なことを標語としてまとめると、

<モテる男とは、一人の女を心から大切にできる男のことである>

ということになる。

以上の筋道で、以前よりかなり論旨はすっきりしてきたのではないだろうか。

ところで、以上の言説は恋愛至上主義ではないかというコメントがいくつか寄せられている。これに簡潔に答えておきたい。

最初に書いたように、私は、恋愛至上主義は解体された方がよいと思っている。これをまず確認したい。

そのうえで考えたいのは、モテたい男の子たちにモテるアドヴァイスをするということは、「モテてこそ一人前の男」という恋愛至上主義を裏側から補強することなのではないか、という論点である。

私の現在の結論は、恋愛至上主義に加担することなく、モテたい男の子にはそのアドヴァイスをする、という道があるはずだ、というものである。

すなわち、

・恋愛しなくても世間からの軽蔑や非難や否定的な眼差しをけっして受けず、恋愛しないことが人間としての価値を下げないような社会に変えていくことを、サポートしつつ

・モテたい男の子にはそのアドヴァイスをする

というこの二つは、両立可能なのではないかということだ。

ここまではよろしいだろうか。

しかしこのあとでなんとも言えない問題が浮上してくるのである。

すなわち、上記の主張は、

・障害をもっていても世間からの軽蔑や非難や否定的な眼差しをけっして受けず、障害をもっていることが人間としての価値を下げないような社会に変えていくことを、サポートしつつ

・障害児を産みたくない人にはそのための技術を提供する

というこの二つが両立可能だ、という主張とほぼ同型ではないのか、という問題である。

この論点について、みなさんは如何なる意見をおもちだろうか。

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追記:新しいのを書いた。小谷野さんちから来た人は、こっちも読むべし。
小谷野敦のモテ論と私」
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070611/1181549666
↑こっちを(も)リンクしてくれればいいのにね、ほんとに、ひねくれた人だ。