戦後民衆精神史

現代思想2007年12月臨時増刊号 総特集=戦後民衆精神史

現代思想2007年12月臨時増刊号 総特集=戦後民衆精神史

現代思想』臨時増刊号が、「戦後民衆精神史」という特集をやっている。戦後の思想文化芸術運動をささえた、サークルの動きを検証していて面白い特集になっていると思う。資料としても貴重なのではないだろうか。冒頭に、鶴見俊輔吉本隆明金時鐘へのインタビューが掲載されている。

鶴見は例によって、歯に衣着せぬストレートな物言いで、たいへん面白い。こういう知性をもって高齢化するというのはうらやましいと思う。

日本の社会は創造的な力を消していくね。これは大学の影響じゃないかと思うんだよ。日本の文化というのは大学出の人たちが作ったものじゃあない。・・・(中略)・・・断じて日本は終わる。私はもともと親父と爺さんを比較していてその直感はあったんだ。80年経って確認するね。自分の中の目利きによると、未来はない。(17頁)

これは、創造的な面という意味では、日本に未来はないということだろう。日本全体を主体として見ると、日本全体が世界に冠たる創造的な場所になるという機運は、たしかになさそうに私も思う。ただそのなかの個人に注目すれば、創造的な個人はこれからも出てきて、その人たちは日本という場所にこだわらずに個として創造性を発信していくだろう。後の世界史から見れば、それらの個人は、とくに日本人としては見られないだろう。私はこのように未来を見ている。

アドルノの否定弁証法講義

否定弁証法講義

否定弁証法講義

アドルノの大著『否定弁証法』への入門的位置づけにあたる本。アドルノが1965年から66年にかけてフランクフルト大学で行なった連続講義のテープ起こしを本にしたもの。

アドルノは「肯定的批判」に対して次のように言う。

そのとき私はラインラントのあるホテルに滞在していたのですが、そのホテルの支配人に私はこう言ったのです。他の点では申し分のないホテルなのに、こんなに騒音がひどいのだから、二重窓を設置すべきではありませんか、と。すると彼は、当然のことながらいくつかの込み入った事情でそれは不可能なのだと説明したあとで、こう語ったのです。「しかしながら、私どもはもちろん、肯定的な批判に対してはいつも心から感謝申し上げています」。
 私が否定弁証法について語る場合、まさしく肯定的なもののこの物神化に対してあたうかぎり明確に一線を画することが重要な動機となっています。(36頁)

興味深い文章である。ここからどういうふうに展開されていくのかは、先を読んでみないと分からない。私自身は、ホルクハイマーのほうが分かりやすくて好きなのだが、アドルノもちゃんと読まないといけないなあと思っている。

この人と福祉を語ろう 〜生活困窮者を支援するNPO事務局長・湯浅誠〜

 今日の夜8:00から、NHK教育で放映です。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/fnet/info/0712/71219.html

生活困窮者をサポートするNPO法人事務局長の湯浅誠さん。現代の「貧困」は、社会に“溜(た)め”がなくなったことによるという。教育、企業の福利厚生、家族の支え、公的な支援など、人を外界の衝撃から守るために必要なバリアのようなものが得られなくなった結果、多くの人が貧困を自己責任と考え、自己否定に落ち込んでいくという。「貧困」の現実を正しく知り、一歩踏み出すために必要なことを湯浅さんとともに考える。

 参考


特定非営利活動法人自立生活サポートセンター・もやい | もやいは、 自立をめざす生活困窮者の 新たな生活の再出発を お手伝いします。

「能力の共同性」が答えか?

新自由主義の嘘 (双書 哲学塾)

新自由主義の嘘 (双書 哲学塾)

私はこちらを取り上げる。方向性としては共感し、挙げられている例はなじみの例も多い。しかし、私は論理の薄っぺらさを感じざるを得なかった。

竹内さんは、新自由主義に抗するために、「能力の共同性」を主張する。しかし、いくら他者に負う(所有権ownershipは他者に「負う」oweというown/oweの親近性も、見慣れた議論だ)としても、能力は個体である生の身体にしか宿らない。つまりは、能力の「何を」共同すべきか、あるいは可能なのか、そのあたりの議論がまったくよくわからなかったのだ。そこが、竹内さんの(この書だけではない)著作を読んでいつも腑に落ちないところである。ロールズの「才能のプーリング」と、どこが違うのか、私には分からない。

10年前、立岩真也が書いた『私的所有論』は、論理の緻密さからして、越えられてはいないように思える。

エンハンスメント

このブログでも話題になっている「エンハンスメント」だが、ファイルを作ってみると、けっこう読んでいない邦語論文もあることに気づかされる。鋭意、情報収集・増補します。

http://www.arsvi.com/d/en.htm

意識と〈私〉

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)

読了しました。とても刺激的で面白い本だと言える。テーマは永井さんがずっとこだわっている「〈私〉」と「言語」のことである。それを、「意識」という面から切ってみた。チャーマーズの、例の「ゾンビ」の例を素材にして、チャーマーズ批判をしていくところはなかなか面白い。議論内容はと言えば、これまで永井さんがしてきた議論の枠内で進んでいくのだが、最後のあたりで、私の特権的な経験の再帰的自覚というものが、実はその特権性の消去を本質とする「言語」によって可能となるという構想が出されていて、これはかなり刺激的であった。あとは、時間についての記述で、間違っているのではないかと思われる箇所があったので、これについてはどこかでちゃんと書くことにしたい。

前のエントリーでも書いたが、やはりこの議論パラダイムは、ヴィトゲンシュタインの手のひらであるということを、再確認できた。永井さん本人もヴィトゲンシュタインの洞察に導かれてここまで来たということを本文で匂わせている。言葉のうえでは、ヴィトの私的言語論は誤謬であると断言しているが、それもパラダイムに乗った上での内部批判のように読める。最初に出てくる「ブトム」という造語も、ヴィトへのオマージュであろう。もちろん、永井さんの側からしてみれば、自分の本来的な哲学的問いが、たまたまヴィトと似ていたという順序であろうから、こういうのは言いがかりのように聞こえるにちがいない。それは重々承知のうえで、私としてはヴィトから脱出する道を探したいと本気で思っている。でも、永井さんの説にはいずれちゃんと絡ませてもらいます。私が以前に書いた論文だけでは終えられないと思うから。

アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』

アイリス・チャン(1968-2004)の著書が、日本語訳されたようだ。

ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト

ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト

南京大虐殺は、虐殺された人々の数だけでなく、彼らの多くが、恐ろしく悲惨な状態で死んでいった事実においても、想起されなければならない。中国人の男性は、銃剣の練習や、首切り競争で殺害された。強姦された中国人の女性は二万人から八万人に上ると見積もられる。多くの兵士は強姦に飽き足らず、女性の腹を裂き、胸を切り取り、生きたまま壁に釘付けにした。家族の見ている前で、父親が娘を犯し、息子が母親を犯すことを強いられた。(p.12)

この本への批判に答えるチャンの文章も収録した、次の本も同時発売されている。

「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む

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